最近読んだ本(2020年7-8月くらい)

とくに一般向けの本について最近読んだ本の紹介。

松原仁(2018)『AIに心は宿るのか』集英社

将棋をはじめとするゲームのAIで著名な人工知能研究者による一般向けの解説書。21世紀に入ってからは、地域観光やモビリティへのAIの応用による地方創生などにも取り組む著者は、本書では、AIの創造性とAIによる機械的失業の問題に主に取り上げる。

AIの創造性に関しては、著者が取り組む小説を書くAIと、将棋AIを例にして、AIがクリエイティブとされるタスクを解いたとされる事例の裏側も含めて、AIに創造性をもたせることができるか、そもそも創造性とは何かという問題に取り組む。

小説を書くAIプロジェクト「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」で開発した作家AI「GhostWriter」は、人間がお話の展開(あらすじ)を用意しておき、AIは適切な言葉を選択して、この展開に沿った多くのパターンの物語を生成する。人間が8割おぜん立てをして、最後2割をAIがことばの組み合わせを生成して小説として出力するというものだ。しくみを聞くと創造性がないように思われるが、実際の小説賞(AIの応募も受け付けている「星新一賞」)に応募した作品を見ると、ショートショートとして結構よい出来で、軽々に「AIには創造性がない」とはいいがたい。

著者の意見では、AIはこうした芸術作品をどんどん生成ができるものの、そうした作品を楽しむ心をもつことは(少なくとも現在のところは)なくて、ここが人間との大きな違いだという。

筆者(大谷)自身、芸術の哲学などを踏まえると、人間の創造性は、社会的・文化的文脈の中で発揮されるもので、むしろ社会的・文化的文脈を踏まえて芸術を鑑賞する力にこそ現れると考えている。これは、著者の松原先生と考えが一致する点だなと思いつつ読んだ。

一方、将棋AIは非常に強くなって、トップレベルの将棋AIには現在人間のトッププロも勝つことがきわめて難しくなっている。AIが創造的な一手を指したことを例にとって、「ひらめき」と呼ばれるようなAIの創造性について、羽生善治永世竜王との対談も交えながら考察している。将棋AIに関しては、松原先生の書籍も含め、80年代90年代に一般向け書籍で学んだが、その後の発展も簡潔に振り返ることができて、便利だった(将棋AIだけでなく、AI全体の歴史に関しても、非常にわかりやすく解説してあるので、本書は、一般向けのAI入門書としてもよさそう)。

先日、藤井聡太七段が、トップレベルの将棋AIが6億手読んでやっと出てくるような手を、23分で読んで打ったというようなニュースがあった。我が家の食卓でも話題になったが、現在の将棋AIは、総当たりですべての可能性を尽くすように手を読むのではなく、盤面の評価(3つの駒の関係(幾何学的パタン)を見て有利か不利か評価)で可能性がない手はそれ以上深く読まず、勝利の可能性がある手のみを深く読む。盤面評価で相対的に不利な手は読まないことで効率よく最善手にたどり着くというヒューリスティクスを採用している。AIが6億手読んではじめて出てくる手の件、このヒューリスティクスが通用しなかったんだなということを、本書を読んで改めて確認した。

最後に、AIが発展することで、人間がAIに置き換えられるだろうという機械的失業に関しては、今後人間はAIと協働して問題解決や仕事に当たるようになるので、単純にAIが人間に置き換わっていくことはないという予測が語られる。実際将棋のプロは、AIを活用して研究することで、より強くなっているという例があげられる。

実際そうなったらよいなと思う一方で、機械によって人間の労働力が置き換えられるパタンを考えると、機械的失業が起こるか、それともAIによる人間の補完が起こるかは、単純に技術だけでは決まらないように思われる。一般的には、機械によって人間の労働力が置き換えられるパタンとしては、①人間の労賃が比較的高く、機械の導入費・運用費等がそれよりも安いと見通された場合、②人間の労働力が不足していて、労働力不足を埋めるために機械を導入して、そのまま人間の労働力を補充しない場合、の2種類がある。現在日本の労働力(とくに、ホワイトカラーの単純労働)は比較的労賃が安い状態で、導入費も運用費も高いAIを導入する理由がないとされる。そのためイノベーションが起こらないから労賃を高くした方がよいという意見もみられるが、イノベーション至上主義的な物言いはとても気になる。また、好景気によって労働力不足も起き始めていたが(昨年は、経理担当者が足りないということがニュースになっていた)、コロナ禍による不況の足音が聞こえてきつつある現在、労働力が不足するかどうかという見通しもあやうい。

AIによる人間の補完を行うにしても、トッププロだけでなく、一般でも比較的安価に強力な将棋AIソフトが手に入るということが、将棋で補完が起きている理由で、経営判断(そして、資本の意志)として、コストだけを考えるならば、AIを人間の補完的な道具として導入する理由はあまりないように思われる。AIが人間の能力を補完するかどうかというのは、より広い社会・経済的文脈を考える必要がある。さらに、経済的文脈だけを考えれば、固定費として高額な人間の労働力を削減し、AIを導入したいという経営&資本側の欲望は常にあるわけで、放っておけば人間の労働力を補完するAIが導入されるということはないかもしれない。おそらくは何らかの文化的要素--思想なのか、宗教なのか--が著者の想像するようなAIが人間をエンパワメントするという世界を招来するためには求められるようにも思う。

町山智浩(2018)『最前線の映画を見る』集英社

町山さんの映画批評は、映画宝島やムック時代の映画秘宝から読んでいると思うが、ここしばらくはたいへんご無沙汰だったものの、フィクションと現実とのかかわりを考えようと(フェイクニュースの研究をやっているので)、あらためて映画批評を手に取った。映画のテーマや、描かれている内容に関する分析も当然興味深かったのだが、『ダンケルク』での時間の描き方の手法なども、映画の技術・技法に通じていない人間として非常に面白く読んだ。多くの作品が現実の社会問題や人生の苦悩を描く一方で、古典(聖書やシェークスピア、昔の映画など)を下敷きにして人物造形や物語の構成を行っていることなど、作品をつくっていくうえで、学生たちにも知ってほしいなあと思うことも多い。秋学期以降の授業で紹介してみよう。

森川博之(2020)『5G 次世代移動通信規格の可能性』岩波新書

日本でも今年4月から一部地域で対応サービスが始まった新しい移動体通信規格「5G」に関する解説書。移動体通信の技術とその歴史、現在登場しつつあるアプリケーション、技術を活用するビジネス、通信規格と技術をめぐる国際政治など、小著ながら包括的に論じる書籍。今年5月、1年生向けの「産業と技術の歴史」で、移動体通信の現在と歴史を扱ったが、そのときに参照できればよかったが、残念ながら授業終了後に手に取ることとなった。

著者のバックグランドは工学だが、移動体通信技術やセンサ技術などを活用する情報社会システムを構想する研究をしていることから、技術とユーザーとのかかわりだけでなく、より広い社会や経済とのかかわりまで見通す内容となっているうえ、とくに技術的な内容に関してはわかりやすく、かつ応用へのイメージが広がる形でまとめられている。全体的に、記述はとてもバランスがよい。少なくともこの数年間、5Gについて知りたいと思ったときに、まず手に取るべき1冊になったように思う。

現代の大きなニーズである地方創生とのかかわり(とくに、筆者は地方私立大学に所属しているので興味深い)という点では、具体的なアプリケーションやサービスの提案はないものの、ローカル5GとIoTによる地方の中小企業中心のイノベーションによる生産性向上が地方や中小企業の賃金上昇に寄与する可能性を指摘している。地方というと、すぐに自然や文化遺産を生かした「観光」という発想になるが、雇用創出と相対的な高賃金実現ということでは、ICT産業に期待がかかる。当然観光も高付加価値化が期待されるところだ。

本書が発売された当時よりも米中対立が深まって、米国などは中国のICT企業ファーウェイの製品を排除する傾向を強めているが、本書によると、同社は人民解放軍由来の企業だが、比較的中国政府と距離を取っている企業で、制裁対象としては実は不適切なのだという。この指摘が適切かどうか確認するすべは筆者にはないが、国家や社会が一枚岩ではないという事実を思い出させてくれる。

本書について不満を述べるとしたら、ほかの分野に比べて、テクノロジーの倫理や規制に関する目配りがやや手薄だということだろうか。5Gを応用した顔認証サービスによる利便性提供というアイデアが述べられているが、今後欧州連合で始まる可能性が高い顔認証に対する倫理規制を考えると、少なくともサーバーにおいて顔情報データベースとの照合を行うタイプの顔認証サービスは、欧州の規制(GDPRと顔識別規制)によって実現が困難である*1。技術のユーザーと社会とのかかわりを考えるうえでは、法・ガイドライン・倫理規程等による規制への目配りは欠かせない。

*詳細は、加藤尚徳・鈴木正朝・村上陽亮(2020)「データ保護に関する国際政策動向調査報告 ~ 欧州における顔識別規制に関する一考察 ~」電子情報通信学会技術と社会・倫理研究会、2020年7月20日を参照。研究会プログラムへのリンク

戸田山和久(2020)『教養の書』筑摩書房

教養とは何かを語ることは確かに恥ずかしいが、でもやるんだよ(根本敬風)という羞恥と決意に満ちた本。現代の映画を見て作品を深く理解することに古典教養がどうかかわるかは、町山著『最前線の映画を見る』でも実践的に語られているので、並行して読んで、たぶん正しかったのだろう。教養が知識ではなく自己修練・鍛錬と結びついているのはその通りなんだけど、箸の持ち方もきれいじゃない俺(筆者)なんかが教養なんて語れないよなあ、ましてや人様の前で授業をやるなんてという気分を増幅されるので、実は結構キツいのであった(これは村上陽一郎先生の『教養とは何か』を読んでもキツかった点だ)。

本書でも指摘されているように、多くの人がバイアスや偏見にまみれている中では自分自身もバイアスや偏見を持っていたほうが、世の中には適応しやすいというのはそのとおりで(何らかの「思想」を学ぶというのも、その思想を正しいとする社会や集団への適応という意味が大きい)、そうした中で、自分自身のバイアスや偏見に気づき、それを相対化する一方で、誤りやすい人間の知性を正しくはたらかせるため、学問を含め、さまざまな人工的装置を身につけよ、というのが、本書の主張の一つだ。でも、大学教育に(短期的に)「役に立つ」という効用を求めている限りは、厳しくつらい道であったとしても就職に役に立たなくても真理を知れ!というのは、魚屋に来た人に野菜を売りつけるようなもので、なかなかに難しいよなあ…とも思う。

さらにまた、ネットで「「俺だけの真実!」にたどり着いちゃう人々も、たぶん世間知や社会的常識などの「独断の微睡み」から覚めて、自己を(誤った方向に)向き変えてしまっているわけで、世間知ではなく真理を求めよという呼びかけは、知性を鍛え補助する装置とそのトレーニングとセットでないと、たぶん有害。知性を鍛え補助する装置を十分提供できているかというと十分な時間をかける必要があるが、なかなかにそうした時間はかけられていない。情報を取捨選択し考えるための道具を手に入れるよりも、集団参入のための「思想」を教えてもらうほうが多くの人にとっては大事っぽいしなあ、、、という観察もある。

 

そうすると、世間知を疑え、真理を求めよ、だけだと「俺だけの真実!」=思想を身に着けちゃう可能性の方が大きいわけで。理系の科学の方法はそういう意味では役に立つと、知性を補助する道具とを同時に手に入れられるので、そのほうがまあ教育としてはすっきりとしていていいよなあということもつらつら考えることでもある。

いつもに増して歯切れが悪いが、大学という場に立って教えている自分自身にも返ってくる内容で、いろいろとぐるぐる考えてしまうのであった。

ところで、反教養主義華やかなりし(?)80年代終わりの大学時代、お互いバカなことばかり話していて友人の一人が、「ジーザスって喧嘩の強いローマ人だと思っていたよー」とこれまた(当然Jesusのことを知りつつ)反教養主義的かつ宗教冒瀆的冗談を飛ばしていたのだが、本書を読んでジーザスに相当するヘススというスペイン語の男性名が普通の名前だということ知って、「へー」だった。50歳過ぎても知らんこといっぱいあるなあ。教養のない俺。とほほ。

岡ノ谷一夫(2020)『ハダカデバネズミのひみつ』エクスナレッジ

キモカワイイということで人気のハダカデバネズミのあれこれについて解説する一般向けの書籍。わかりやすくかわいいイラストや写真が満載。裸でデバだし、へんてこだし、気持ち悪がるかなーとうちの保育園児に見せてみたところ、「かわいー」とのことで、読めない漢字ばかりにもかかわらず、ひとしきりうれしそうに眺めていた。監修の岡ノ谷先生が学生と一緒に10年前に書いた本から以後の発展(デバのiPS細胞や無酸素状態での生存など)や、研究史(現在国内でハダカデバネズミを飼育する唯一の研究機関の熊本大学三浦恭子研究室の研究など)も載っていて、最新研究を知りたい人にもお役立ち。デバデバ。

熊野純彦(2020)『三島由紀夫 人と思想197』清水書院

哲学者の手になる手堅くバランスがよい評伝。作品の中に思想や哲学を読み込みすぎることなく、著名人との交流にかかわるやはり興味深すぎるエピソードに踏み込みすぎることなく(こうした部分は、既存の評論や伝記に任せるというスマートなやり方)、伝記的事実と作品評とをバランスよく配し、それでも読ませるというスタイル。伝記としても作品鑑賞のための手がかりとしても、確かなガイドになるという印象。