こんなん読んだ(2021年8月)

だいぶながくかかっちゃったけど、下記の本よんだよ。

 

シッダールタ・ムカジー(2020)『遺伝子-親密なる人類史-』早川書房

 

www.hayakawa-online.co.jp

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遺伝にまつわる科学・技術の歴史。遺伝学や遺伝子工学にかかわる説明もわかりやすいうえ、物語としての可読性が高いところが、まずポイント高い。優生学運動や、アシロマ会議、ヒトゲノム計画でのセレラ社の登場など、社会と遺伝学・遺伝子工学との接点に関する話題に関しても、非常にわかりやすく整理した形で情報を提供してくれている。アシロマ会議の経緯に関しては、この本でよくわかった(という、自分が専門ではない領域ではあるものの、科学技術史を看板の一つにしている研究者として恥ずかしい事態)。また、優生学が、そもそもメンデルの発見を理解していない人々の運動だったという話は、言われてみればそうなんだけど、そうなんだよね、と思った。つまり、優れた形質の個体からはすぐれた形質の子孫が生まれるという「カエルの子はカエル」効果を(少なくとも19世紀終わりから20世紀初めの)優生学は前提としているんだけど、メンデルの法則を考えれば、遺伝子は粒子的なもので父母から確率的に伝わるから、そんなことはないので、優生学の前提おかしいよね、という話。まあ、そうなんだよね。

また、ムカジーじしんの家族が抱える遺伝にかかわる「悲劇」を腹蔵なく書いていて、実は結構読み始めて痛々しくて少し読むのが止まってしまった。このエピソードがあることで、他人事として科学技術史を眺め読むだけではなく、遺伝子を「確率的に」共有することって、私たちの人生にとってどういう意味があるのかなあとかいろいろと考えさせる。その一方で、私たちのいろいろな性質について、知的能力や気質、性格、くせなども遺伝の影響が強いものの、環境の影響は無視できず、何よりも「偶然」がその人とその人の人生を作り出すという見方は、私たちじしんのことを考えるうえでも大事なことのように思った。

ただ、その一方で、話が面白すぎるというか、物語としての可読性とおもしろさによって抜け落ちている部分がないかなあとか思った。遺伝学・遺伝子工学の科学技術史を読み進めていくうえでの大まかな見取り図を得ること、そして上記のような自分自身の人生や社会と遺伝現象、遺伝学・遺伝子工学とのかかわりを考える重要なきっかけや示唆が得られること、こうした点で本書で学んで、時間があれば(私も時間があるかなあ)本格的な科学技術史の論文や本を読みたいよねーと思った。

文庫版解説では、COV-19(新型コロナウイルス)とその感染症COVID-19についてのわかりやすい解説もあって、これも現在目の前で起きていることを理解するうえで、大事な基礎知識を提供してくれそうだ。

 

 さらに読んだ本を書くよ。いろいろやんなくちゃいけないことあるんだけど、それでも読んでる。

ニュートンコンサルティング株式会社慣習、勝俣良介著(2017)『世界一わかりやすいリスクマネジメント集中講座』オーム社

 リスク評価・リスク管理の考え方を学ぶ手始めに読んだよ。タイトルと本の紹介だけざっと読んで注文して、本を開いて「わー、対話形式か。苦手なんだよな」と思ったけど、結構早く読めた。世界一わかりやすいかどうかはわからないけど、結構わかりやすい。リスクは不確実性であって、ネガティブなものだけでなくポジティブなもの(うれしいこと、望ましいこと)もあるし、目的と目的を達成するものにかかわるものだから、目的を与え明確にする中でしかリスクも特定できないという話は、ま、素朴に「リスク」を考えていた身には、ほーっという話でした。一般的に「リスク」というと、漠然と将来起こるいやなことや困ったことというイメージだけど、目的に対してどのような不確実性があるかということを考えることなのねということから始まって、リスクの洗い出し(リスク特定)、その発生可能性と影響の重大さの見積もり(リスク分析)、優先順位づけ(リスク評価)、リスク対応について、考え方がよくわかる(初級編)うえ、企業リスクマネジメント(ERM)の考え方(中級編)、日産とYahoo!Japanの実践的な事例の紹介(上級編)、さらに大事故の発生に関する考察(応用編)という構成。大事故の発生は、リスク認識があってもリスク対応が正しく十分に行われていなかったという事例が多いという指摘は興味深かった。日産では、トップにまずはリスク特定をやってもらってそれをもとにリスク分析・評価・対応を行うそうで、これを読んだときはトップが本当に現場のことわかっているのかなあと思いながらも、認識はあっても対応ができていないからという先ほどの大事故発生原因の話からして、あーそれでいいのかもと思わされた(が、もう少し考える必要あるよね)。

古川英二(2020)『破壊戦:新冷戦時代の秘密工作』角川書店

情報セキュリティ・フェイクニュース関連の情報収集を目的に読んだが、「こえー」というのが素直な感想。本書は、ロシアの非合法な工作活動に関して、日本経済新聞社の記者が実際に見聞した出来事を交えながら紹介・解説する。ロシアの毒物による暗殺事件・暗殺未遂事件とその背景となる非合法な諜報・工作活動に関する解説に始まり、こうした荒っぽい暗殺事件があっても西側諸国(という枠組みも今や古いわけだけど)の対応が微温的なもので十分ではないうえ、さまざまな利益供与(ロシアの国家と結びついた財閥企業の役員への就任とか)によって西側諸国の指導者が懐柔されている場合もあって十分な対応ができていないから、暗殺事件が続くとの指摘。ロシアの国家と財閥との暴力・お金を介した結びつきのあり方は「マフィア国家」と称されるらしい。フェイクニュースに関しては、第4章に解説あり。北マケドニアの承認をめぐってのフェイクニュース合戦の背景など、ざっくりとわかってよかった。ロシアの海外向け宣伝メディアの当事者のインタビューも興味深い(第5章)。ウクライナへのサイバー攻撃への対応者のインタビューや、ロシアのセキュリティ会社にかかわる疑いなどは、情報セキュリティ問題の背景を知るうえで役立つ(第6章)。経済力を落としているロシアが中国に接近しているという話題が、最終章「コロナ後の世界」のコア。ロシアに限らず、それぞれの国の情報セキュリティ企業(やICT企業)が国の安全保障上の意向を受けて行動している可能性はあるわけで、ICTと社会・経済に関して考察しようとすると、こりゃいろいろとややこしいなあと思った。

 

萱野稔人(2017)『カネと暴力の系譜学』河出書房.

2006年刊の書籍を文庫化したもの。知的財産権の正当化にかかわる理論としては、ロックの労働所有説を根拠とするものもいまだ有力っぽいんだけど、身体所有を根拠に、労働から所有を正当化するだけでは十分じゃなくて(占有状態の発生しか説明しないとする)、所有権が国家によって保障されてはじめて所有が生じるという指摘は、「ああ、そうかー」と思った(153-155)。貨幣は国家による税の徴収から生じるという指摘が、ドゥルーズガタリの『千のプラトー』にはあって(国分功一郎「解説」)、それをもとに本書のカネの系譜学(貨幣論)は書かれているとのこと。

 

 

こんなん聞いた(2021年3月)

今月はなんだかいろいろオンラインの学会やら、研究会、コンファレンスなんか聞いているぞ。俺日記。 

岡山弁護士会シリーズ憲法講演会No.26
山本龍彦慶応義塾大学教授「AI時代におけるプライバシー:情報自己決定権の確立に向けて」2021年2月27日13時~15時

情報教育センター分室長から、プライバシーにかかわる話題で、センターに関係するかもしれないので聞いておいて、、、と言われて、聴講。結構たくさんメモ取って話を聞いた。いろいろと学説上の対立があるのは、本読んでるだけじゃわかんなくて、専門家の話を聞くべきねと思った。

電子情報通信学会技術と社会・倫理研究会(SITE研究会)(併催:インターネットアーキテクチャ研究会(IA研究会)、連催:情報処理学会インターネットと運用技術研究会(IoT研究会))3月1日-3月2日

現在本拠としてお世話になっているSITE研究会の恒例3月研究会。3月は、毎年IA研究会・IoT研究会とご一緒している。技術と社会・倫理にかかわるSITE研究会の研究報告に加えて、インターネット技術に関する最先端の研究が聞けて非常にありがたい機会。今回は2日目の午後のセッションの座長を務めたが、座長の素人質問にもみなさん温かく対応いただき(とくに、IA研究会のお二人は大学院生で、いずれもしっかりとした発表と質疑応答の受け答え)、とても勉強になった。KDDI総合研究所の加藤先生はここしばらく皆勤賞でご発表をいただいて研究会を支えていただいている。今回は、IoTの健康機器の広がりなどで取り扱いが問題となっているヘルスデータにもかかわる、米国のHIPAAの改正に関する解説。海外動向の整理&分析は技術やサービスのグローバル化が進んでいる現在非常に重要な発表。

3月2日は個人的にとても大変なことが起こって午前中はひどいことになっていたので、いつもに増して髪ぼさぼさで服装もひどいいものだったが、ご発表者のみなさま・質問をいただいた先生方、ありがとうございました。

2021年電子情報通信学会総合大会(2021年3月9日~3月11日)

3月9日

信頼性研究会、技術と社会・倫理研究会(SITE研究会)と、安全性研究会に参加。SITE研究会は座長、その他は聴講。SITE研究会では、仕事や学業、学習などの活動がオンラインに移行することで、CO2排出量がどのように変化するというシミュレーション。学業・仕事のオンライン化が進めば進むほどCO2排出量が減少するという結果なのだが、学業・仕事のオンライン化が100%進んだ場合と50%の場合、この2つの活動についてのみ比較すると、100%進んだほうが電気消費や物流が増えてCO2排出量が増加するという結果だそうだ。ふむ。ご発表いただいた発表者に加えて、質問をいただいた先生方にも感謝。

3月10日

「BI-12. ローカル5Gの最新動向と今後の展望」を聴講。次の日のプレナリーセッションの講演で、同セッションのチェア・報告者の、大阪大学の三瓶先生が5GPPの日本代表だったということを知る。ローカル5Gはあくまでも私有地内での利用に限られるので、用途として工場や農地などが想定されているとのこと。総務省の担当者も出てきて、いろいろな事例があっておもしろい。ケーブルテレビが各地のローカル5G利用の中心だということも知った。学校のある地元の吉備ケーブルテレビは、ローカル5Gを防災向けサービスに生かす下記の会社には参加していないみたい。岡山県では倉敷ケーブルテレビが出資している。
http://www.rwj.co.jp/

あと、総務省の各地のローカル5G利用の実証実験の一覧。
https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01ryutsu06_02000280.html

5G導入上の課題は通信局の導入・運用経費と、運用者の免許取得。これが利用開始の障壁になるかも。

また、無線LANとローカル5Gの比較は?というフロアからの質問。実証実験では比較は現在のところ行われていない。一般的には、セキュリティの観点では(医療など)ローカル5G が無線LANよりもよい。スペクトルを独占できるのでローカル5Gのほうが通信の確実性が高い。こうしたメリットがあるとのこと。

3月11日

プレナリーセッションを聴講。笹瀬巌電子情報通信学会会長の講演(3 度目のニューノーマルに向けた、電子情報通信学会における活性化・改革への取り)では、「通信とは、通って信(よしみ)を深めること」という話が印象的。Communicationとcommunion(交流・歓談)とのかかわりにも触れられていた。コミュニケーションとは単なる情報・メッセージの伝達ではないという、京都大学大学院文学研究科の水谷雅彦先生の、「会話と社交の倫理学」京都大学のオンライン公開講義「立ち止まって、考える」シーズン2)を聞いた後だったので、さらに印象深かったのかと。

基調講演は2つ。東京工業大学工学院の阪口啓先生は、5Gの標準策定にかかわった経験から、通信とイノベーションについて講演(5G が切り拓く超スマート社会 〜オープンイノベーションとオープンエデュケーションの融合〜)。とくに、移動体通信の2世代で1つのイノベーションが起こるという話が興味深い。直近のイノベーションは3・4世代で動画活用が定着し、現在のオンライン会議やオンライン授業などを支えていること。5・6世代では、4世代の終わりあたりで登場したリアルタイムのVRとARが花開くことになるのだろうか。同じく高安美佐子先生は、数理的方法による社会・経済現象の分析に関するご講演(ビッグデータに基づく社会・経済の科学とその応用)。フェイクニュースが伝播パターンで見分けがつく可能性があるとか、うわさと感染症の伝播は人の接触/コミュニケーションを介して広がるという点では数理的に類比的だとか、取引のパターンを見るとお金が企業間を循環しそのビジネスエコシステム全体が潤うか超大企業のみがお金を吸い上げてしまうかはある定数が決めているとか、おそらく数理社会学・経済学に関心を持たない一般の読書人にも興味深そうな話題がたくさん。こうしたビッグデータによる「形式」(パターン)の研究が、人文学・社会科学の質的研究と結びつくと、より経済や社会の理解が進みそう。基本的に物理学系のジャーナルに研究成果が掲載されているというのはさもありなんと思いつつも、人文学・社会科学との交流がなかなか難しそうでちょっと残念な気もする。

イノベーションを支えるデータ倫理規範の形成」プロジェクト データ倫理セミナー(早稲田大学)(3月9日)

RISTEX「イノベーションを支えるデータ倫理規範の形成」プロジェクトの研究代表横野恵先生(早稲田大学社会科学部)が主催するセミナー。堀井俊佑先生(早稲田大学グローバルエデュケーションセンター)と横野先生がご登壇。堀井先生は、パターン認識人工知能研究における公平性の問題や、プライバシー侵害(複数機関のデータ統合における同意や、特別な値のデータからの特定の個人の識別など)、解釈性の問題(AIが何を持って判断したか不明、AIが着目している以外の問題がないか不明など)について解説。横野先生は、医療倫理からデータ倫理にアプローチ、Human SubjectとData Subjectの比較によって、人を対象とする研究とはまた違う医療資源としての試料・データ倫理の問題を整理。さらに、医療・生命科学分野以外でも幅広い学問分野でデータ倫理が問題となるうえ、研究倫理だけでなく、企業倫理や技術者倫理など、幅広い倫理の対象となることを指摘した。質疑応答では、1)データ取得時の包括同意の根拠となる規制はあるか、2)非常に広い分野でデータサイエンスが実践されているが、医療倫理のデータ倫理がそのままほかの分野に展開できると考えるか、3)情報技術者の技術者倫理はACMの倫理綱領など著名なものがあるが、今後の課題と考えるのはなぜかを質問。1)は厚生労働省のヒトゲノム研究・人を対象とする研究を包括する倫理指針が根拠、2)はおそらくそのままでは展開できない、3)現在の実践と技術者の倫理綱領との結びつきを見るべきとの回答をいただいた。お二人のレクチャーはともに非常によく整理された内容でとても勉強になった。

社会課題共有フォーラム「FUTUREライフスタイル実現に向けて~地域の魅力づくり」(3月11日)

東海国立大学機構 「FUTUREライフスタイル社会共創拠点」主催のパネルディスカッション。上記の信学会プレナリーセッションが終わってから聞いたので、後半のみの聴講。事例や話題は愛知県・静岡県などの東海地方が中心だが、過疎地域への移住など、おそらく岡山県でも問題意識を共有できそうな話題があった。地理的に近接する場所でも移住者の数が全然違うという話や、狭い農地や古い建物が取り残される都市のスプロール現象が海外からの研究者から見ると、日本の都市/町の魅力をつくっているという話が興味深い。都市計画みたいなかっちりと街づくりをすることの限界みたいなものかな?とも思う。 

次世代モビリティ社会を考える夕べ 第8夜「移動の価値とモビリティの未来 (7)」(3月12日)

この講演会は毎回楽しみな話題が多いのだが、時間が合わなくて(ちょうど職場から家に帰る途中だったり)視聴できないことが続いていたが、ひさびさに通してみることができた(と思っていたら、本日(18日)開催の第8夜を見逃した!!しまった!)

この日は、東京大学の稲見昌彦先生の「自在化する身体」と、大阪大学石黒浩先生の「移動とアバター生活」の講演2つ。

稲見先生のお話はのっけから子供のころ忍者になろうと高いところから飛び降り続けて腕の骨を折ったというエピソードで持ってかれるという展開。稲見先生の研究は、身体の自在性をあげていく、自己とは自分自身がコントロールできるものだというデネットの指摘をもとに、技術によって「ウィーナー界面」を変えていくことという俯瞰的なまとめはとくにおもしろかった。さらに、フロアから、こころも思い通りにならないので自己ではないのかという質問があり、技術でこころを自在化することも可能ではという回答。で、「あー、身体のウィーナー界面の操作と同じように、心のウィーナー界面操作するって、ヨガじゃん!ステラ―クさんがヨガ行者みたいな姿している理由が分かった!」という気づきを得た(笑)。

石黒先生は、アンドロイドや人間のミニマムな存在感を感じさせロボットのテレノイドやハグビーの紹介から、オンライン世界のアバターの話題まで。石黒先生の話し方と声を聴いていて、「あ!竹村健一にそっくりなんだー」と、またもやアホな気づきを得た。石黒先生と稲見先生との対話で、予期が人間の経験には非常に重要だという話題があって(旅/移動も始まる前の想像があってこそ楽しい)、人間の知覚や世界・他者認識は知覚というよりも想像・予期でほとんどできているという石黒先生の指摘は、ハグビーやテレノイドの「存在感」のことを考えると、納得すると同時に、私たちの他者理解のぽかっと空いたような空虚さが見えて、どっきり。さらに、こういう論文のことも思い出したり。

A.K.セス(2019)「脳が『現実』を作り出す」『日経サイエンス』 49(12), 41-49.

出張や会議も事前に想像する、そこまで行くプロセスが大事ということを考えると、10分間単純作業をやったり運動しないとZoomにログインできないなんて機能があってもいいかもというアイデアも(ま、冗談ですよね(笑))。

日本科学史学会技術史分科会(科学論技術論研究会共催)オンライン開催(3月12日)

 「科学技術基本法改正と科学技術政策」がテーマ。「ポスト冷戦期」の日本の科学技術政策の俯瞰(早稲田大学綾部広則先生)と、科学技術政策の中での大学改革問題(立命館大学兵藤友博先生)、アメリカの科学技術政策の概観(立命館大学山崎文徳先生)の3つの話題提供。講演後の質疑応答で、「科学技術政策」とは何を指すのか、どのようなレトリック(質疑では「ロジック」ということばが使われたが)で科学技術政策を正当化してきたか、社会的・学術的に望ましい科学技術政策を行おうとする場合どのようなレトリックが必要か、個々のプロジェクトではなく科学技術政策全体の政策評価は行われているのかなどの問いが関心を引いた。大学改革に関しても科学技術政策に関しても、2000年代以降官と産の要請によるコントロールが強いという指摘があったが、直接大学が予算や人事でコントロールされるだけでなく、同時に顧客(卒業生を受け入れる企業や、入学して学費を払う学生や保護者など)のニーズという形でも振り回されている事態をどう見ているのかなという感想も。官も産もなんか振り回されている感じがあるんだよね。なんだろね。

 

LMBA位置情報ビジネスカンファレンス2021オンライン

3月18日「【 Round Table 】位置情報データとプライバシー」

 政府(個人情報保護委員会事務局赤坂晋介氏)、ビジネス(LBMAジャパンガイドライン委員会主任編集委員・株式会社ブログウォッチャー山下大介氏)、大学(大阪大学ELSIセンター岸本充生先生)の講演と対話によるラウンドテーブルセッション(司会は、LBMA代表理事川島邦之氏)。

赤坂氏からは、令和2年個人情報保護法改正のうち、仮名加工情報の取り扱いと、提供先で個人情報となりえる情報の第三者提供に関する本人同意の確認の義務づけについて説明。仮名加工情報は、(1)特定の個人を識別しうる記述(氏名や住所など)の全部または一部を削除・置換し、(2)個人識別符号の全部を削除、さらに(3)不正使用されることにより財産的被害が生じうる情報の削除(クレジットカード番号など)を施した情報のこと。利用目的の変更等の制限や、漏えい等の報告、開示・利用停止等の請求への対応の義務が免除される。一方、サービスの高度化によって、提供元では特定の個人が識別されない個人関連情報に過ぎなくても、提供先でほかの情報と照合することで個人情報となり得る情報(共通IDを使って名寄せできるなど)に関しては、同意の確認が義務となったことが説明された。

山下氏は、LBMAのガイドラインの制定背景と、その概要についての説明。これはネットに公開されているLBMAのガイドラインに関する説明とほぼ同じ。

岸本先生の解説は、一昨年12月の講演とほぼ重なる内容で、位置情報ビジネスに限らず、広く新しい技術やビジネスの登場に当たっては、倫理・法・社会とのすり合わせを行う必要があるとして、ELSIの思想と実践の重要性を主張するもの。特に今回新しい論点としては、政府関係者が参加していたこともあるのだろうが、政府と民間がいっしょになってELSIに取り組む「官民共同規制」の必要性を指摘した点だったように思われる。岸本先生の一昨年の講演については、『フィルカル』誌の拙稿(大谷卓史(2020)「 シンポジウム「ELSI対応なくして、データビジネスなし」聴講記 データビジネスと倫理・法・社会 (特集 「ELSI」というビッグウェーブ)」『フィルカル』5(1), 316-325)を参照。※今気づいたけど、この記事、Researchmapにも、今年の実績報告にも書き忘れていたじゃん!損した!(笑)

以下、3人の対話のメモ。

  • 事業者が位置情報ビジネスを展開するにあたって必要・大事なこと

個人情報保護委員会赤坂氏
事業者が個人情報・個人関連情報(位置情報)をどのように利用しているか利用者・社会にもっとわかりやすく説明していく必要がある。

ブログウォッチャー山下氏
ユーザーにわかりやすくUXの工夫や、文章のわかりやすさ(ずらずらっと長く利用規約・同意事項が書かれているのは不可)に気をつけていく必要があるだろう。
大阪大学岸本先生
事業者が判断しなくてはならないことが今後増えると予想されるので、倫理のような軸が必要。今後の問題に対応するため、官民共同規制のような協力で問題に先んじた対応ができれば。

  • Withコロナの時代、企業は個人情報・位置情報・倫理でどのような点に気をつけるべきか。

大阪大学岸本先生
LBMAガイドライン、いいタイミングで出た。ガイドラインが安心につながる。ユーザーや社会にとってのメリットがどう示せるかが大事。個人情報保護法の改正を待つのではなく、PIAのような業界標準を先手を打って提案し、社内から社外へとケーススタディも蓄積・公開することが重要。データビジネスの利活用を制度化していくべき。
山下氏
事業者の中でのELSIの醸成が必要。新しい取り組みへの障害に萎縮するのではなく、新しい取り組みに挑んでいくため、事業者の構成員の良識を育てていくことが大事。アカデミアや政府との協力ができたことは、事業者以外の見方が取り入れられるので今回よかった。ユースケースとして広げていければ。
赤坂氏
データの利活用ビジネスのキーワードは二つ。セキュリティバイデザインと、プライバシーバイデザイン。民間企業でのセキュリティ対策が進まない要因は、コストとしてとらえられがちなため。プライバシーも同じ構造かも。コストがかかる、個情法があるから仕方なくという企業が多いのでは。コストではなく投資としてとらえてほしい。付加価値がつき、世の中として評価されビジネスとして軌道に乗ることが期待される。プライバシーやセキュリティを前向きにとらえる企業が増えれば。

川上氏
事業者がもっと個人情報保護委員会に相談していくといいのでは。
赤坂氏
個人情報保護委員会はサービス、ビジネスを止めるのではなく、こういう法的整理をすればできるのではないかという提案をできるだけしたい。お気軽に相談していただければと思う。

 

 

 

こんなん読んだ(2021年2月)

  • 田代志門(2020)『みんなの研究倫理入門 臨床研究になぜこんな面倒な手続きが必要なのか』医学書院.

3名の登場人物による対話形式の(医科学の)研究倫理入門。対話形式だと、一般的には誰か先生が教えるという形だが、本書は著者の意図として対話の中から倫理が立ち上がるようにしたかったとのこと。倫理審査委員会に異なる立場や背景から参加する登場人物の対話によって、研究倫理やそれを取り巻く状況の複雑さがわかる。

そうした複雑さを十分描きながらも、インフォームドコンセントや、弱者を研究対象とする研究など、医療倫理の理解が難しい問題を非常にクリアに整理しているのが印象的。ニュルンベルク綱領やヘルシンキ宣言、ベルモントレポート、CIOMS倫理指針の背景や、「使い方」がわかるのもよい。

対話形式ってたるいんだよなーと思う人にも役立つと思う。

2月13日読了。

こんなん読んだ(2020年12月)

最近読んだ本をランダムに。追加していくことになるんじゃないかしらね。

標葉隆馬(2020)『責任ある科学技術ガバナンス』ナカニシヤ出版.(12月27日読了)

科学技術評価と科学技術政策に関する、学部~大学院レベルのテキスト。科学技術政策と研究評価の現状と課題(第1部)、科学コミュニケーション(第2部)、科学技術のガバナンス(第3部)の3部構成。もともと論文として発表された文章を再編したものなので、独学教科書としてはたぶんキツい。また、科学技術ガバナンスとしてのRRI(Responsible Research & Innovation)やELSI(Ethical, Legal, and Social Issues)は、学際的分野でいろいろなアプローチが存在するので、たとえば科学技術倫理などの視点からのRRIやELSIを知りたい場合は別の書籍が必要になりそう。

第1部は、世界的な(主に米国・欧州)の潮流の中で、1980年代以降の日本の科学技術政策がどのように展開したか示したうえで(第1章、2章)、日本の科学技術の評価制度の現在と課題を示す(第3章)。「…日本の研究開発評価の制度化とその変化については、科学技術政策、学術政策、行政改革といった異なる背景のもとで、必ずしも整合性がとられないままに同時に複数の議論がなされ、制度の導入がなされてきたことが特徴」(62)という指摘は、確かに納得。

第2部は科学コミュニケーション。科学技術に関する報道のフレーミングの時間的変化に関する研究は興味深かった。書き手の変化という話もおもしろい(第4章、第8章)。再生医療の科学コミュニケーションに対する専門家と一般人の関心の違い(前者はしくみや可能性を伝えたい、後者はリスクとその責任と保険などについて知りたい)がわかる調査結果は興味深い。確かに両者とも再生医療でどのような治療が可能かに70%以上の人が関心をもっているものの、しくみや可能性に中心がある専門家と、リスクとその責任という関心のある一般人では、やはり見ている方向が違うことがわかる(第6章)。第5章は科学コミュニケーションの経路に関してまとまっているのがよい。

科学技術ガバナンスは、欧州連合EU)が資金支出するプロジェクトなどで義務づけられるRRIと、米国発の科学技術の倫理的・法的・社会的側面の考察・評価を行うELSIに関して、実際の評価項目等を示しながら、科学技術ガバナンスとその基礎となるインパクト評価を担う人材養成をどのように行うかに関して考察する。研究評価に関しては人材養成が確かに重要なポイントなので(欧州の研究評価の標準化プロジェクトを情報系学会で紹介したところ、この点について質問された)、考察を進める重要な基礎となりそうな論考が並ぶ。ただ、現在のところ、専門家養成ができるだけ関心を専門化させ、深く思考を進めることを求めているので、科学技術専門家がかかわるにしても、インパクト評価は、より幅広い視野の人間が必要だろう。人文・社会科学系のかかわりについても指摘されているとおり。

現在書いている論考に関連して何か示唆するものがないかなあと読んだのだけど、残念ながら直接の示唆はなかったが、上記のようなことで勉強になった。

加藤尚武(2020)「AIの数学者は、唯名論者か、プラトン主義者か」

加藤尚武(2020)「AIの数学者は、唯名論者か、プラトン主義者か-プラトンからゲーデルまで」『生存科学』31(1), 3-14.

御恵贈いただいて拝読。本論文は、アプリオリな知をめぐる哲学史をまとめたうえで、総合的なアプリオリな知は不可能であって、総合的命題と分析的命題は区別できないという、クワインの結論から導かれるホーリズム批判に至る。ホーリズムじたいは否定していないのだが、ホーリズムが前提する、突然ガラッと理論や知の真理値が変わるという見方を批判する。理論や知の改訂は、ウェゲナーの大陸移動説がじわじわと正統な学説として認められたように時間遅れがあるからだ、と指摘する。そうすると、正統な学説になる前の理論は対象のない名辞を含むことになるが、この対象のない名辞が意味のあるものとして使えない限り、このようにじわじわと正統な学説が生まれることはないとする。この対象のない名辞が意味を獲得する過程を、「本当は違う」もの同士を比喩で結びつける人間の知性に着目して説明する。外延性を超えて比喩が内包的な意味を獲得し、さらに、「死んだメタファー」として何者か抽象的なものを指示する外延性を獲得することで、人間の知の創造性と時間遅れを伴いながら知識の在庫の一部として採用されていくプロセスが可能になるというような話。

本論文は、「AI時代における生」という特集の1本で、タイトルにある通りAIの数学的知が人間と同等になるための条件をさぐるというのが、この論文の大枠。解答としては、このメタファーの話からわかるように、普遍・抽象的なもの(数も含む)を実在として眺める実在論者(プラトニスト)でなければならない、というもの。

 

人間は、条件関係を同値関係と勘違いするけど(A→Bから、B→Aを導出しがち)、ハトは勘違いしないという知見について、ハトのほうが正しいと金沢誠先生(現、NII→法政大学)*1が発言したけど、その場にいた人がみんなわかってくれなかったんだよねー、と、岡ノ谷一夫先生(東京大学大学院総合文化研究科)がむかーし話してくれたことを思い出す。そのとき二人で雑談して、こういう勘違い能力が、人間の言語のシンボル性(言語と実在との対応)とをつくり出しているんじゃねーかなとか話したのを、この論文読みながら思いだした。でもまあ、岡ノ谷先生によると、そんな簡単じゃないよねーとの話だった。)

しかし、それにしても加藤先生は80歳超えて活発な知的活動を続けてらして、あらためて尊敬。すげー。

 

追記:結構誤字があったね。誤字のあったところで、あららと思ったところを解説しておくと、「正統な知識」と「正当な知識」は、前者が「正当化され真であるとして研究伝統に組み込まれた知識」、後者が「証拠や補助仮説によって正当化され、当時の学問の真理基準をクリアしている」という意味ならば「妥当な」とするべき。「A→Bから、B→A」と「A→Bから、B→C」とするのは、前者は同値関係、後者は推移律の途中(「A→B、B→Cから、A→C」が推移律)。

前者のような同音異義語の使い分けや、似た意味だけど語源が違ってさらに実ははっきり意味が違う(デカルト哲学でのevidementとclairmentとか。坂本賢三先生の演習でデカルト読んだときに「明証的に」と「明晰に」の区別を聞いたわけだけど、デカルト以外フランス語で読んでないから、あとは知らない)、同じ文字だけど読み方が違い意味が違う(種のnatutureという意味の本性(ほんせい)と、「人間の本性(ほんしょう)」とかという定型句での「ほんしょう」とか)は、ゆっくりと海外文献を日本語で理解する哲学のゼミを受けてよかったところ。学生が訳して、教員がそれを受けて訳を補って、解説して…ということをやることで、違う分野の文献の翻訳でも、結構注意深く訳すことができるようになった(自画自賛)ように思うよ。哲学役に立つ!(笑)

*1:すでに異動されていたようです。岡ノ谷先生に教えていただきました。ありがとうございます。

最近読んだ本(2020年7-8月くらい)

とくに一般向けの本について最近読んだ本の紹介。

松原仁(2018)『AIに心は宿るのか』集英社

将棋をはじめとするゲームのAIで著名な人工知能研究者による一般向けの解説書。21世紀に入ってからは、地域観光やモビリティへのAIの応用による地方創生などにも取り組む著者は、本書では、AIの創造性とAIによる機械的失業の問題に主に取り上げる。

AIの創造性に関しては、著者が取り組む小説を書くAIと、将棋AIを例にして、AIがクリエイティブとされるタスクを解いたとされる事例の裏側も含めて、AIに創造性をもたせることができるか、そもそも創造性とは何かという問題に取り組む。

小説を書くAIプロジェクト「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」で開発した作家AI「GhostWriter」は、人間がお話の展開(あらすじ)を用意しておき、AIは適切な言葉を選択して、この展開に沿った多くのパターンの物語を生成する。人間が8割おぜん立てをして、最後2割をAIがことばの組み合わせを生成して小説として出力するというものだ。しくみを聞くと創造性がないように思われるが、実際の小説賞(AIの応募も受け付けている「星新一賞」)に応募した作品を見ると、ショートショートとして結構よい出来で、軽々に「AIには創造性がない」とはいいがたい。

著者の意見では、AIはこうした芸術作品をどんどん生成ができるものの、そうした作品を楽しむ心をもつことは(少なくとも現在のところは)なくて、ここが人間との大きな違いだという。

筆者(大谷)自身、芸術の哲学などを踏まえると、人間の創造性は、社会的・文化的文脈の中で発揮されるもので、むしろ社会的・文化的文脈を踏まえて芸術を鑑賞する力にこそ現れると考えている。これは、著者の松原先生と考えが一致する点だなと思いつつ読んだ。

一方、将棋AIは非常に強くなって、トップレベルの将棋AIには現在人間のトッププロも勝つことがきわめて難しくなっている。AIが創造的な一手を指したことを例にとって、「ひらめき」と呼ばれるようなAIの創造性について、羽生善治永世竜王との対談も交えながら考察している。将棋AIに関しては、松原先生の書籍も含め、80年代90年代に一般向け書籍で学んだが、その後の発展も簡潔に振り返ることができて、便利だった(将棋AIだけでなく、AI全体の歴史に関しても、非常にわかりやすく解説してあるので、本書は、一般向けのAI入門書としてもよさそう)。

先日、藤井聡太七段が、トップレベルの将棋AIが6億手読んでやっと出てくるような手を、23分で読んで打ったというようなニュースがあった。我が家の食卓でも話題になったが、現在の将棋AIは、総当たりですべての可能性を尽くすように手を読むのではなく、盤面の評価(3つの駒の関係(幾何学的パタン)を見て有利か不利か評価)で可能性がない手はそれ以上深く読まず、勝利の可能性がある手のみを深く読む。盤面評価で相対的に不利な手は読まないことで効率よく最善手にたどり着くというヒューリスティクスを採用している。AIが6億手読んではじめて出てくる手の件、このヒューリスティクスが通用しなかったんだなということを、本書を読んで改めて確認した。

最後に、AIが発展することで、人間がAIに置き換えられるだろうという機械的失業に関しては、今後人間はAIと協働して問題解決や仕事に当たるようになるので、単純にAIが人間に置き換わっていくことはないという予測が語られる。実際将棋のプロは、AIを活用して研究することで、より強くなっているという例があげられる。

実際そうなったらよいなと思う一方で、機械によって人間の労働力が置き換えられるパタンを考えると、機械的失業が起こるか、それともAIによる人間の補完が起こるかは、単純に技術だけでは決まらないように思われる。一般的には、機械によって人間の労働力が置き換えられるパタンとしては、①人間の労賃が比較的高く、機械の導入費・運用費等がそれよりも安いと見通された場合、②人間の労働力が不足していて、労働力不足を埋めるために機械を導入して、そのまま人間の労働力を補充しない場合、の2種類がある。現在日本の労働力(とくに、ホワイトカラーの単純労働)は比較的労賃が安い状態で、導入費も運用費も高いAIを導入する理由がないとされる。そのためイノベーションが起こらないから労賃を高くした方がよいという意見もみられるが、イノベーション至上主義的な物言いはとても気になる。また、好景気によって労働力不足も起き始めていたが(昨年は、経理担当者が足りないということがニュースになっていた)、コロナ禍による不況の足音が聞こえてきつつある現在、労働力が不足するかどうかという見通しもあやうい。

AIによる人間の補完を行うにしても、トッププロだけでなく、一般でも比較的安価に強力な将棋AIソフトが手に入るということが、将棋で補完が起きている理由で、経営判断(そして、資本の意志)として、コストだけを考えるならば、AIを人間の補完的な道具として導入する理由はあまりないように思われる。AIが人間の能力を補完するかどうかというのは、より広い社会・経済的文脈を考える必要がある。さらに、経済的文脈だけを考えれば、固定費として高額な人間の労働力を削減し、AIを導入したいという経営&資本側の欲望は常にあるわけで、放っておけば人間の労働力を補完するAIが導入されるということはないかもしれない。おそらくは何らかの文化的要素--思想なのか、宗教なのか--が著者の想像するようなAIが人間をエンパワメントするという世界を招来するためには求められるようにも思う。

町山智浩(2018)『最前線の映画を見る』集英社

町山さんの映画批評は、映画宝島やムック時代の映画秘宝から読んでいると思うが、ここしばらくはたいへんご無沙汰だったものの、フィクションと現実とのかかわりを考えようと(フェイクニュースの研究をやっているので)、あらためて映画批評を手に取った。映画のテーマや、描かれている内容に関する分析も当然興味深かったのだが、『ダンケルク』での時間の描き方の手法なども、映画の技術・技法に通じていない人間として非常に面白く読んだ。多くの作品が現実の社会問題や人生の苦悩を描く一方で、古典(聖書やシェークスピア、昔の映画など)を下敷きにして人物造形や物語の構成を行っていることなど、作品をつくっていくうえで、学生たちにも知ってほしいなあと思うことも多い。秋学期以降の授業で紹介してみよう。

森川博之(2020)『5G 次世代移動通信規格の可能性』岩波新書

日本でも今年4月から一部地域で対応サービスが始まった新しい移動体通信規格「5G」に関する解説書。移動体通信の技術とその歴史、現在登場しつつあるアプリケーション、技術を活用するビジネス、通信規格と技術をめぐる国際政治など、小著ながら包括的に論じる書籍。今年5月、1年生向けの「産業と技術の歴史」で、移動体通信の現在と歴史を扱ったが、そのときに参照できればよかったが、残念ながら授業終了後に手に取ることとなった。

著者のバックグランドは工学だが、移動体通信技術やセンサ技術などを活用する情報社会システムを構想する研究をしていることから、技術とユーザーとのかかわりだけでなく、より広い社会や経済とのかかわりまで見通す内容となっているうえ、とくに技術的な内容に関してはわかりやすく、かつ応用へのイメージが広がる形でまとめられている。全体的に、記述はとてもバランスがよい。少なくともこの数年間、5Gについて知りたいと思ったときに、まず手に取るべき1冊になったように思う。

現代の大きなニーズである地方創生とのかかわり(とくに、筆者は地方私立大学に所属しているので興味深い)という点では、具体的なアプリケーションやサービスの提案はないものの、ローカル5GとIoTによる地方の中小企業中心のイノベーションによる生産性向上が地方や中小企業の賃金上昇に寄与する可能性を指摘している。地方というと、すぐに自然や文化遺産を生かした「観光」という発想になるが、雇用創出と相対的な高賃金実現ということでは、ICT産業に期待がかかる。当然観光も高付加価値化が期待されるところだ。

本書が発売された当時よりも米中対立が深まって、米国などは中国のICT企業ファーウェイの製品を排除する傾向を強めているが、本書によると、同社は人民解放軍由来の企業だが、比較的中国政府と距離を取っている企業で、制裁対象としては実は不適切なのだという。この指摘が適切かどうか確認するすべは筆者にはないが、国家や社会が一枚岩ではないという事実を思い出させてくれる。

本書について不満を述べるとしたら、ほかの分野に比べて、テクノロジーの倫理や規制に関する目配りがやや手薄だということだろうか。5Gを応用した顔認証サービスによる利便性提供というアイデアが述べられているが、今後欧州連合で始まる可能性が高い顔認証に対する倫理規制を考えると、少なくともサーバーにおいて顔情報データベースとの照合を行うタイプの顔認証サービスは、欧州の規制(GDPRと顔識別規制)によって実現が困難である*1。技術のユーザーと社会とのかかわりを考えるうえでは、法・ガイドライン・倫理規程等による規制への目配りは欠かせない。

*詳細は、加藤尚徳・鈴木正朝・村上陽亮(2020)「データ保護に関する国際政策動向調査報告 ~ 欧州における顔識別規制に関する一考察 ~」電子情報通信学会技術と社会・倫理研究会、2020年7月20日を参照。研究会プログラムへのリンク

戸田山和久(2020)『教養の書』筑摩書房

教養とは何かを語ることは確かに恥ずかしいが、でもやるんだよ(根本敬風)という羞恥と決意に満ちた本。現代の映画を見て作品を深く理解することに古典教養がどうかかわるかは、町山著『最前線の映画を見る』でも実践的に語られているので、並行して読んで、たぶん正しかったのだろう。教養が知識ではなく自己修練・鍛錬と結びついているのはその通りなんだけど、箸の持ち方もきれいじゃない俺(筆者)なんかが教養なんて語れないよなあ、ましてや人様の前で授業をやるなんてという気分を増幅されるので、実は結構キツいのであった(これは村上陽一郎先生の『教養とは何か』を読んでもキツかった点だ)。

本書でも指摘されているように、多くの人がバイアスや偏見にまみれている中では自分自身もバイアスや偏見を持っていたほうが、世の中には適応しやすいというのはそのとおりで(何らかの「思想」を学ぶというのも、その思想を正しいとする社会や集団への適応という意味が大きい)、そうした中で、自分自身のバイアスや偏見に気づき、それを相対化する一方で、誤りやすい人間の知性を正しくはたらかせるため、学問を含め、さまざまな人工的装置を身につけよ、というのが、本書の主張の一つだ。でも、大学教育に(短期的に)「役に立つ」という効用を求めている限りは、厳しくつらい道であったとしても就職に役に立たなくても真理を知れ!というのは、魚屋に来た人に野菜を売りつけるようなもので、なかなかに難しいよなあ…とも思う。

さらにまた、ネットで「「俺だけの真実!」にたどり着いちゃう人々も、たぶん世間知や社会的常識などの「独断の微睡み」から覚めて、自己を(誤った方向に)向き変えてしまっているわけで、世間知ではなく真理を求めよという呼びかけは、知性を鍛え補助する装置とそのトレーニングとセットでないと、たぶん有害。知性を鍛え補助する装置を十分提供できているかというと十分な時間をかける必要があるが、なかなかにそうした時間はかけられていない。情報を取捨選択し考えるための道具を手に入れるよりも、集団参入のための「思想」を教えてもらうほうが多くの人にとっては大事っぽいしなあ、、、という観察もある。

 

そうすると、世間知を疑え、真理を求めよ、だけだと「俺だけの真実!」=思想を身に着けちゃう可能性の方が大きいわけで。理系の科学の方法はそういう意味では役に立つと、知性を補助する道具とを同時に手に入れられるので、そのほうがまあ教育としてはすっきりとしていていいよなあということもつらつら考えることでもある。

いつもに増して歯切れが悪いが、大学という場に立って教えている自分自身にも返ってくる内容で、いろいろとぐるぐる考えてしまうのであった。

ところで、反教養主義華やかなりし(?)80年代終わりの大学時代、お互いバカなことばかり話していて友人の一人が、「ジーザスって喧嘩の強いローマ人だと思っていたよー」とこれまた(当然Jesusのことを知りつつ)反教養主義的かつ宗教冒瀆的冗談を飛ばしていたのだが、本書を読んでジーザスに相当するヘススというスペイン語の男性名が普通の名前だということ知って、「へー」だった。50歳過ぎても知らんこといっぱいあるなあ。教養のない俺。とほほ。

岡ノ谷一夫(2020)『ハダカデバネズミのひみつ』エクスナレッジ

キモカワイイということで人気のハダカデバネズミのあれこれについて解説する一般向けの書籍。わかりやすくかわいいイラストや写真が満載。裸でデバだし、へんてこだし、気持ち悪がるかなーとうちの保育園児に見せてみたところ、「かわいー」とのことで、読めない漢字ばかりにもかかわらず、ひとしきりうれしそうに眺めていた。監修の岡ノ谷先生が学生と一緒に10年前に書いた本から以後の発展(デバのiPS細胞や無酸素状態での生存など)や、研究史(現在国内でハダカデバネズミを飼育する唯一の研究機関の熊本大学三浦恭子研究室の研究など)も載っていて、最新研究を知りたい人にもお役立ち。デバデバ。

熊野純彦(2020)『三島由紀夫 人と思想197』清水書院

哲学者の手になる手堅くバランスがよい評伝。作品の中に思想や哲学を読み込みすぎることなく、著名人との交流にかかわるやはり興味深すぎるエピソードに踏み込みすぎることなく(こうした部分は、既存の評論や伝記に任せるというスマートなやり方)、伝記的事実と作品評とをバランスよく配し、それでも読ませるというスタイル。伝記としても作品鑑賞のための手がかりとしても、確かなガイドになるという印象。

「次世代モビリティ社会を考える夕べ 第2夜『移動の価値とモビリティの未来』」

次世代モビリティを考える名古屋大学未来社会創造機構のレクチャー、聞いたよ。名古屋大学大学院情報学研究科の久木田水生先生がファシリテータで、講師は、京都市立芸術大学の磯部洋明先生と、豊橋技術科学大学の岡田美智雄先生。

磯部先生の講義は「宇宙にエクソダス」というテーマ。大学から帰る途中、iPhoneで見ながら(競馬中継を聞いてるおっさんみたいなイヤホンを見つけたので、それを耳にさして音声は聞きながら)帰ったんだけど、トンネルの多い特急の中で電波を見失って止まってしまって、途中で見れなくなってしまった。とほほ。

家に帰って、一人ご飯を食べながら(妻と子どもは、スマホでゲーム中)、岡田先生の「クルマとドライバーとの幸せな関わり方を探るー〈弱いロボット〉たちとのインタラクションを手掛かりとして」を視聴し始めた。まずは、先生の〈弱いロボット〉の研究について。ふらふらおどおどして頼りなく人間が手助けしないと思って、思わずごみを拾って入れてあげるゴミ箱ロボット。うちの保育園児はこういうのたぶん大好きなので、「かわいいのいるよー」と言って、ロボットたちの動くのを見せてあげたところ、案の定「かわいー」と大喜びであった。手をつないで一緒に歩いてくれるロボットや、何気なく、そして響きあう会話をして情報を伝える3匹のロボットたちを見ていると、「あー、保育園にこういうのいっぱいいるー」と、毎朝子どもを連れていく…一緒に手をつないで歩いていく保育園で見る子どもたちを思い出した。

さて、自動運転では、とくに人間と自動車が協調して走行するレベル3の場合、自動車の中には運転する主体が二人いる。ドライバーが自分の身体の延長として自動車を運転していると、ときにもう一人の主体である「何者か」が割り込んでくることになる。これはどうも気持ち悪いということで、先ほどの、響きあう「そうねそうね」とうなずきあう3匹の会話ロボット「NAMIDA」を搭載し、ロボットの「気持ち」や「考え」をドライバーに伝えることで、自動運転に伴う疎外感(運転する自律性を奪われ、ただ監視する存在になり、やがては飽きてしまい・・・)を緩和するとともに、自動車を取り巻く環境(いま赤信号、あそこに子どもがいる)と人間の知覚・認知とをつなごうと試みている(ここらへんの解釈は私のもので、岡田先生の説明はもっと違った)。

機械の気持ち・考えと響きあうことで、レベル3の「不快」かもしれない自動運転を共同作業に変えて、人間と自動車、そして環境との関係を再構築してしまおうというのはおもろいなーと思った。後半は、自分の部屋に引きこもってみていたんだけど、さっきのNAMIDAは子どもに見せてやろーということで、あとでYouTubeの映像をあさってみるつもり。

ということで、家でご飯を食べながら、おもろい講義を聴けるというのはいいものだ。